utteringUFOの日記

私とあなたの備忘録です

NOTEは言わない

2021年12月31日、今年も締めの文章を書く時間になったよ。

この習慣が始まった2019年末はこんなコロナ禍の世界がやってくるなんて思っていなかったよね。今の私も時々、2年前を思い出してはこんなはずだったけと唖然としているよ。でも、世界は必然的な事実の積み重ねでできていて後戻りなんてできないから、未来の方向を見定めていくしかない。そのためにも、とりあえず今年の振り返りをしようか。

1月、課題に追われてはいたけれど誕生日を祝われたりして、比較的幸せに過ごしていた。課題の方ではそれなりに評価もされて、建築のことが少し好きになったり、知れたような気がしたりした。

2月、様々な展示を見に行ったり、建築を見に行ったり、チョコを手作りしてみたり、文化的にかなり充実していたけれど、一方でメンタルを病んでしまう月でもあった。元気な時と悲しい時のギャップに、自分でも戸惑ってしまって何もわからない暗中模索の日々だった。

3月、山形に友達と旅行して、念願の坂茂が建てたホテルに泊まって、クラゲも見た。かなり記憶に残る素敵な旅行になった。後半は、春から京都へ旅立つ恋人に着いていって準備をしていた。家にいない時間が長い月だったけれど、その分自分に向き合えず、後から響いてくる要因にもなったように思える。

4月、設計と製図の授業とゼミだけになり、大学生もいよいよラストイヤーだと実感する始まりになった。入りたい研究室に入れたので教授の考えを吸収しようと必死だったし、設計の方もしがみつくように戦っていた。一方で、とても辛い出来事も起こってしまって、足元がぼろぼろと崩れ落ちる感覚が始まった。

5月、4月の出来事から回復しようともがいていた。もうどうしていいかわからなかった。それでも生きなければならない約束が指を引っ張っていたので、色んな人に会ったり、美味しいものを食べたり、なるたけ明るく振る舞ってにこやかにたおやかに過ごしていた。

6月、ほぼ記憶のない、劣化版5月という感じで梅雨があった。あまり良くない人付き合いもあって、振り返っても仕方ないなという感じがする。建築もプライベートに伴って落ちていくのが面白かった。

7月、暗い時間を超えてやっつけではあったけれど建築を、都市を作ってみたら案外評価されて嬉しい月だった。月末には、長野と松本へ母と旅行をした。マメクロゴウチ展と新築の長野県立美術館を見たり、松本民芸のホテルに泊まったりできて一種の逃避行ができて爽やかだった。時間を手に入れるとありえない体験もして、夢を見ているような月だった。

8月、建築展から始まって、恋人のいる京都へ向かう日々があって、イサムノグチ展に終わる月だった。去年からは考えられないくらい夏が充実していたので、もう満足だった。とても日に焼けて、あの病弱な私はどこかへ行ったみたいだった。

9月、旧友と懐かしの映画を見に行ったり、先輩の家でおしゃ飲みをしたり、普段はないような交流をできるのが夏休みの醍醐味だと感じた。一方で、卒制と卒論が迫ってきていて、焦りに焦ってなんとか卒論のテーマを決めてリサーチを始めていた。サマーバケーションから新学期への変遷を感じた。

10月、この月の好き建築は京都の恋人に会いに行った際に見た、京都市京セラ美術館であろう。友達と展示を見にいくことで息抜きしながらも、かなり焦って卒論の参考文献を集めたり、卒論のゴールを決めて筋書きを決めていったりしていた。草稿を他の研究室の教授に見てもらった時の反応がかなり良くてはちゃめちゃに嬉しかったのを覚えている。

11月、卒論に関連する妹島和世展で始まり、卒論にさらにギアがかかるかと思われたその時、私は突然壊れた。全く人とのコミュニケーションも思考も読書もままならなくなってしまって、恋人にも会えない中で心が冷え切っているのを感じた。そんな中でも必死で研究室旅行の幹事をして参加してきた。論理的に心を回復させる方法を下旬には学べて、起き上がらない身体で必死に卒論を書き上げた。やり切った。

12月、卒論を提出して、発表も終えて、正直私は浮かれていた。一ヶ月半ぶりに恋人に会ったあと、さらにクリスマスで会っちゃったりして。来月の私は絶対に卒制で痛い目を見るだろうなあ。可哀想に。

今年は遊びも勉強も全力で詰め込んで成果も十分に得られたけれど、体力と気力のバランスを自分でもコントロールできない時があったのが完全に反省点だ。来年こそはもう少し整理して、落ち着いて、穏やかに、生きられますように......果たして私はどんな人生を望んでいるんだろうか。

誰か知ってる?

20210101ーおせち

出汁をたっぷり含んだ優しい黄色のだし巻き卵が、じゅわっと美味しい。

おせちは本来は正月に楽をするために編み出された保存のきく料理を詰めたお重のことだ。しかし我が家ではそれを作るために年末の3日間をかけるために、家庭内がギスギスしたり、その間の食事が疎かになるため、そろそろそんな慣習はいいのではないかと思っている。

Twitterでよそのおうちのおせちを見ると羨ましい。生の魚介やフレンチなど、日持ちしなさそうな豪勢なものがゆるりと収められ、煌びやかだ。対してわたしの家のおせちは茶色っぽい。ちょっとダサいと思ってしまう、味は美味しいのにね。

この子持ち昆布も絶品だ。

わたしは働くようになったらこの家を出るつもりだが、その時までに自分のおせちを愛せる日が来るんだろうか。それとも新しい生活では全く違う新しいおせちを作って食すんだろうか。

家の象徴にも思えるおせちが、わたしの家をよく表してると感じるが、家自体を好きにならなきゃこのおせちだって好きになれないのかもしれない。

それにしても昆布巻きと松前漬けが良い酒のつまみだなぁ。美味しさに、抗えない。

散歩のススメ

今日は恋人とデートだった。その字面だけでにやける。会わない日はすぐに会いたくなり、お互い秒で次の約束を取り付けてしまうが、振り返ってみると実際は週2,3回レベルで会っている。何回目でも飽きることがないままなのがとても嬉しいけれど、お金は有限なところが悩ましい限りだ。

 

生理の時はカフェインを控えるようにしているから(酒は飲むのに)、コーヒー屋さんではホットミルクを頼んで二人で春の道を歩き出した。川のある街だからか風通しが良くて、ジャケットを脱ぐような陽の暖かさでも気持ちがよかった。途中でベンチに座ってひなたぼっこをしたり、遊歩道脇に咲く桃の花や河津桜を写真に撮ろうと腕を伸ばしたりして過ごした。一人でも家の観察や散歩そのものが大好きなのだが、彼と行うとより一層楽しい。視点が違うからだろうか。今後も定期開催する予定だ。

道を進んでいった先の公園で、小学生の子供達がわんさか集まって遊んでいた。今週からcovid-19の影響で休校になったためだろう。今後誰の家に集まるのかの話し合いもしているようで、この人数で密集していては休校の意味〜〜と思ったが、楽しく過ごしているのが健康には一番なので今後も健やかに遊んでいてほしい。

別の道を歩いて駅前に戻ると、今度はカフェでしばらく作業をした。まあ途中お酒を挟んだりもしたが、春休みにしては励んでいる方だろう。よし。数時間過ごして息が詰まったので、空気を変えるため外に出る。日は落ちているのに寒くない、春ってすごい。昼間に歩いたのとはまた別の道を行く。ぐんぐん行くと知らなかったお洒落な店がたくさんあって、はえ〜〜この街は歩いても歩いても知りきれんねと感心する。お腹が痛くなったらまたベンチで休みながら、ちょっとずつ歩く。手を繋いだり、腰に手を回されたり、スキンシップの選択肢が様々なところも好きだ。体がホカホカしてきたところでさようならをする。

 

春には散歩が持ってこいだ。花粉は少ししんどいけれど、花が咲き零れて、暑すぎもせず寒すぎもせず、人の洋服もカラフルになり始め、眼に映るもの全てが私を歓迎しているように思えてしまう装いの季節だ。今年に限った話で言えば、バイトが潰れてお金がなくても、好きな展示やライブが中止になっても、無料で自由にできる。密室じゃないから感染を恐れる人でも安心だし、経済を回したい気持ちがある人なら少し飲食店に寄ってテイクアウトしてもいい。

カメラ、本、ミルク、好きなものを持って街へ出て、好きなメンツで少し歩いてみませんか。

計画的進行

昨日作成した三月の目標と、それに伴って前夜に作るtodoリストに従って今日を過ごした。

試してみた結果としてわかったことは、朝はとても楽で夜が辛くなるということだ。完全に思考が停止してしまっている朝には、todoに従って進めばいいだけのタイムはとても楽だ。実際、いつもよりも午前中に為せることが格段に増えた。しかし如何せん、やりたくないなめんどくさいなということがtodoに載っているわけだから、簡単でやりやすいことからこなしていく。

結果、午後にはやりたくないことばかりが残っていてなかなか進まない。そればかりか、少しできた項目がある達成感で昼頃から怠けだし、普段滅多に見ないのにyoutubeなどを見てしまった。

まあでも、何ができて何ができないかを可視化できるのはとても良いことなのだろう。一週間は様子を見てはどうかね、UFO君。

春半分

春半分、正確には春休みの半分が終わってしまっていた。今日はもう3月らしい。確かに昨日は閏日にきゃっきゃしていたのだから、そりゃそうなのだろうが。イタリアから帰ってきたら、もうそんな。あっという間すぎる。

covid-2019の流行によって日本中の人が集まる活動が休止していっていることに意気消沈し、おまけに外出禁止の令が親より言い渡されてしまったので、書き物でもしてなきゃ窒息してしまうと思い、バレンタインごろからお休みしてしまっていたこの場所を復活させた。言葉を封じられない限り、どんなに物理的制限を受けたって私は自由だ。

 

さて、2月を振り返ると二進も三進も行かない掃除もどきと、家のドタバタ、研究会の行事、幸せなバレンタイン、イタリア旅行などが主なイベントだったろうか。得たものと同じくらい消耗してしまったものも多くて、心から幸せな時間だと言えるのは恋人とのいくつかのデートくらいだろう。あまり自身の成長や努力がない月だったのがわかり虚しい。

同じように3月も過ごし、そのまま3年生になるのだけは絶対に嫌だ。せめて目に見える成長がなければ。どうせ家にいる時間が強制的に増えるのだから有限なものは有効に使おう。

 

そういえば新年が明けた頃に、2020基本指針として一年の目標を10個の項目に振り分けて立てたけど、どうですか。実現できているものもあ流けれど、本当にすべき項目にはまだ手をつけていないようだし面倒臭いことを次の日々に後回しにしているように見える。また、適宜新しいイベントが入ることで増える目標もあるのに、それを上手く追加できず手の中で弄んでいるようだね。

年の指針があるのは長期的な志を持つことに繋がるからいいけれど、できているかどうかのチェックと次の改善というフィードバックができにくいな。よし、月目標に変えよう。毎月毎月、月の目標を決めて内容をツイートし、固定ツイートとしてぶら下げる。どうせツイッターなら毎日開いてるだろうから、日常の中で目に入って達成に繋がりやすくなるだろう。期待しよう。元々、様々なウェブサービスの中で一番ツイッターとの付き合いが長いんだから、活用できるものだという信頼はあるはずだし実験的にやって上手くいくか春休みの間に検証しよう。

 

ここは、むしろ日々の所感のメモと、誰かと話したいけど話せない時の逃げ場と、過去への懺悔と未来への祈りの場だ。実用的であるよりも、東洋医学のようにじわじわ効いてくる、セルフおまじないのような場所なのだということをこの二ヶ月で実感できた。それだけでも得たものは大きい、生きるのはまだまだ続く。

それではツイッターに戻って、3月の目標を考えといて。素敵な月にするんだよ、淡い桃色の夢の世界だ。

桜餅を見よ

ふとしたことでスンっと悲しくなってしまう。悲しみよ、こんにちは。でも早くさようならして。と思いながらもどこにも逃げられなくて一人でずぅっと溺れる。悲しいから余計に思考の逃げ場がなくなり視野が狭くなり、さらに些細なことで傷つくループなのだ。

でも今夜はどうしても一人で解決して、そして立ち直らなければならなかった。母と話して、父と話して、祖母と話して、とりあえずここ最近の問題を解決できた。相手も人間だから、どうしても悪く転ぶ日もあれば、努力すれば何とかよい結末へ方向転換できる日もあるらしい。諦めずに説得してみるものだ、と思った。

 

目先の問題は片付いても根本的解決は私の中で為されていなくて、自己批判とは名ばかりの、他者との比較と他者にどう思われるかの怯えで脳を壊死させてしまった。相対的な尺度や憶測による萎縮なんて自分の人生に必要なはずもないのに、絶対的なものを見つけられないと思って生きる意義もわからくなっていた。積極的に死にたいのではなく、消極的に生きたくない状態に。

 

そこでふと今日の写真を見返していて、桜餅を恋人と二人で持つ写真を見た。そうしたら全てがわかった。

今日は私が二度寝したせいで遅刻したのに、一足先に着いてお散歩していた恋人は桜餅を持っていて、東京の汚れた川を尻目にお日様の下を歩きながら二人で食べた。その時の眩しさとか香りとか全部思い出して、今日のたった4時間のデートに詰まっていた恋人の愛を改めて受け取れた。

そして反省した。見失っていたけれど、私は愛の実現のために生きてるんだよなぁと思って。それはもちろん恋人だけではなくて赤の他人まで含めたところでの愛だ。終着点はわからないけれど、当面の私は愛のために生きよう。間違っても憎しみや争いではなく、世界に蔓延させたい愛のためだ。

僕は女の顔をしている?

久しぶりに目当ての本を探して辿り着く旅をした。大抵は気に入りの本屋で偶然の出会いに身を任せたり、近所の本屋で好きな作家の新作を手に入れるだけで本を得る過程は済む。それでも稀にどうしてもこの本が気になる、欲しいと評判を耳にして手に入れたくなる本がある。

今回はそれが『戦争は女の顔をしていない』だった。ウクライナの女性作家が、ソ連時代に徴兵されたたくさんの女性兵士にインタビューしたのを集めた本だ。これを主著としてノーベル文学賞も受賞している。読みたいな、読まなきゃな…と思い続けて手にしないままだったが、2月末にウクライナへ行くこととなったので至急読まなければならなくなった。しかしちょうどコミカライズによって人気が出たらしく、どの店も在庫切れ。Amazonでは正規価格に千円載っけた値段で売られ、他の通販サイトも取り寄せにつき時間がかかるとの回答だった。今欲しいのに!それでもなんとか在庫僅少の店を見つけて、願いながら行くと一冊あった。嬉しい。

これが私の宝探しである。

 

本は宝だ。読書体験そのものも宝だし、物語の世界も宝だ。そして何より本そのものも宝だと思う。だってまだ読んでないのに、その表紙を触るだけでこんなにも嬉しい。

人生の中であと何回、私はこんな体験ができるだろう。どれだけ努力すれば、こんな体験をさせられる側になるのだろう。